アート史のおすすめ本。記事に参考にしている本について

これまで書いていた記事について、友人に見てもらい、近頃アドバイスをもらっていました。

 

成功点も反省点もあり、もう少し記事の作成力を上げたいこのごろ…

 

少し休憩がてら、私が美術を勉強する中で役立ってきた本、おすすめの本を紹介します。

 

 

 

アート史おすすめ書籍

古代から1920年代ごろまでの美術史を学ぶ

すごく分かりやすい書籍です。アート初心者の方にもぜひおすすめしたい本です。

 

絵画作品ってこんな風にみればいいのかという鑑賞法から、美術史、美術史上の疑問まで広く学べます。

 

ただ注意点として…

1920年代ごろまでしか学べない。戦後の現代アートは学べない

・ヨーロッパの美術しか学べない。

 ・さらっと読むだけなら10時間。考えながら読むともう少しかかる。

 

しかし、大きな展覧会で名前を聞く偉大な画家について知ることができるため、おすすめの一冊です。

 

戦後の美術を学べる。私の教科書。

現代美術史に関し、最も網羅的にまとめた本であり、最も新しいものであるはずです。

 

第二次世界大戦後 のアートの流れを解説する本ですが、それ以前の関連した美術運動にも触れています。

 

現代美術を流れや関連性から学びたい人、アートの本場である欧米以外のことも知りたい方へおすすめです。

なにより私が本ブログを書く上で最も参考となっている一冊です。 

 

注意点は

・むずい。 →分かりやすく書かれていますが、登場する作家や評論家が多い点は難解です。時折、哲学思考ができないとついていけない文があったり…

・絵はあまりない。 →多くの作品や作家が紹介されますが、ほとんど絵はありません…

・有名作家は少ないかも。 →近年の美術史を分析することや、欧米のアートに囚われないアートの目線が重要視されています。「アメリカの抽象絵画を知りたい」という方には、ほとんど紹介されていないためおすすめできません…

 

私も読みながら、他の書籍やネットで調べつつ、理解し記事を書くことが出来ています。

 

作品テーマから学ぶ

 

 

芸術・美術雑誌で有名な『美術手帖』『芸術新潮』です。

 

テーマごとに月が決まっています。
「環境とアートの関係」「女性とアート」「表現の自由」など、テーマごとにアートを見たい方には大当たりな月があるかもしれません。

 

過去のものも購入できるので、気になる月はチェックしてみましょう。

 

特徴として

美術手帖

・最新のアート事情が分かる。
・歴史がある雑誌で、詳しさがすごい。
・あまり知られていないアーティストや作品も多く紹介。
・文章が非常に多く内容も難解。
・一巻の内容をすべて理解するにはかなりの時間がかかる

 

芸術新潮
・美術ではなく、芸術であるため、取り上げる内容は『美術手帖』より幅広い。
・写真多めで分かりやすい。
・キャッチ―な作品、有名作を多めに紹介
・最新の海外アート事情はやや少ない。

 

 ここからアートにハマる人も多いシュルレアリスム

アートを好きになるきっかけとして多い、美術運動にシュルレアリスムがあります。 

 

1920年代から約50年近くも続いた芸術運動です。

 

サルバドール・ダリルネ・マグリットの絵は一度見ると、深く印象に残る人も多いかと思います。

f:id:bigakuchikamichi:20210726182522j:plainサルバドール・ダリ《記憶の固執

f:id:bigakuchikamichi:20210726182923j:plainルネ・マグリットピレネーの城》

 

実は、このシュルレアリスム作品には、第一次世界大戦での惨事や、合理主義との闘い、フロイト精神主義との関係など広くあります。


後に大きく影響を与えた本であり、知れば生活にもよい影響をもたらしてくれます。

 

美術史ではないけど…とりあえず面白い。散歩が楽しくなる。

戦後の芸術家、赤瀬川源平の一冊です。

 

街中で見かける、これは何のためにあるんだと思う建造物。

それをトマソンと名付け、面白く紹介した本です。

 

街を歩くのが楽しくなる一冊です。 これは美術史の本ではありませんが、これも芸術かと思うきっかけになります。

 

アートの書籍は高い、手に入りにくい…

作品、分析の練習として見ている美術史ですが、やはりその分析をしようとすればするほど、書籍の少なさに苦しみます。

 

特に、日本の戦後美術史の本はとても少ない…

 

古本屋に行き、少しだけ見つけるも高くて落ち込むこともあります…

 

いい本あれば、ぜひ私にもご紹介を。

 

 

内灘闘争を元にした絵画作品。池田龍雄の《網元》

こんにちは。

 

1950年代には社会問題・事件を作品とするルポルタージュ絵画が描かれました。

 

代表する作品の一つ池田龍雄さんの《網元》(1953年)があります。

 

内灘闘争を主題にした作品だと知った作者ですが…

 

そもそも内灘闘争ってなんだ…?

 

という状態だったため、内灘闘争がそもそも何かという所から勉強し、作品を考察しました。

 

考察し、間違いなく言えることは、内灘闘争の様子を描いたことに留まらないメッセージ性があることです。

 

詳しく見ていきましょう!

 

 

 

池田龍雄《網元》(1953年)

1950年代、社会の出来事や事件を描いたルポルタージュ絵画が多く作られました。

 

池田龍雄(1928~2020)さんも内灘闘争を描いたルポルタージュ絵画シリーズを展開します。

 

その中で特に評価されているのが《網元》です。

museumcollection.tokyo

 

現在は東京都現代美術館に所蔵されています。

 

ただ作品を見ての通り、内灘闘争の作品だとぱっと見て分かるものではありません。

 

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どのような意図で描かれているのでしょうか。

 

内灘闘争とは

内灘闘争は石川県の内灘町にて起こった闘争です。

 

1949年~57年、朝鮮戦争を受けて内灘砂丘の海岸線が砲弾試射場に使用することになりました。

 

内灘の村々で反対運動が起こり、全国へも広がります。

 

政府は一度期限付きで試射場を許可しますが、反対運動が大きくなり、撤収としました。

 

現在も、内灘には着弾観測棟の跡地があります。

bunka.nii.ac.jp

 

ルポルタージュ絵画

ルポルタージュ絵画は1950年代に起こった、日本美術の作品の傾向の一つです。

 

社会問題や事件の記録性を重視した絵画です。

 

しかし、単に事件の様子を描いただけではありません。

 

無意識な心の動きを描くシュルレアリスムの技法を混ぜ、事件を風刺的に描くこと、主観的に描くことを重視しています。

 

筆者の考察

池田龍雄の描き方

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池田龍雄さんの描き方も、ルポルタージュ絵画の風刺性や主観性が入った作品です。

 

ルポルタージュ絵画には現地を訪れず、メディアの情報のみを頼りに描いた作品もありますが、池田龍雄さんは内灘を訪れたそうです。

 

東京現代美術館の紹介によれば

「一般労働大衆の意識と、それとは甚だしくズレのある芸術家の意識とをいかに結びつけ、弁証法的発展にまでもってゆくかということ」に日々頭を悩ませていた池田は、積極的に社会との接触を図るため、仕事場を飛び出し、反対運動を繰り広げる内灘村の漁民の中に自ら入っていったのである。

網元(内灘連作の内) | Tokyo Museum Collection

とあります。

 

作品の中で「一般労働大衆の意識」と「芸術家の意識」の混ざりを目指したということですね。

 

《網元》に描かれているもの

皺のある男性が大きく描かれていますが、作品が「網元」であることから、男性は網元さん、長年漁師を生業としてきた大将と考えることができます。

 

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男性は縄で首を絞められつつ、左手には船を持っています。支えているのか、動かしているかはわかりません。右手には網を持っています。

 

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背景には、魚と一台の船が描かれています。右に見える魚には肉がありません。船は男性の手のひらにあるものとはやや違った船となっています。

 

注目点は、内灘闘争の作品でありつつ、砲台のことや、反対する村民の様子ではなく、ただ網元の様子が描いてあることです。

何を伝えようとしたのか

作品での、「一般労働大衆の意識」「芸術家の意識」はそれぞれ一体何か考察します。

 

「一般労働大衆の意識」としては、

  • そもそも内灘闘争という民衆の動きを作品にしたこと
  • 村民が漁業者としての砲弾試射場へ反対しているということ
  • 現地を訪れて描いたこと

があると考えます。

 

一方で、「芸術家の意識」として、また他地域の人として、問題を広く捉えているという特徴があるのではないかと思います。

 

作品の中の

  • 網と船の両者を一人で持つ負担
  • 縄で首を絞められている(しがらみか?命の危険か?)
  • 肉のない魚

これらは、そもそも漁村社会の問題を表現していると見ることができます。

 

もしかすると池田龍雄さんは、
内灘闘争での議題は「アメリカ軍を追い出す」ではなく、漁村そのものにある
と考えていたのではないだろうか。

 

そもそも砲弾試射場の場所に選ばれることのない「豊かな漁村を作ること」と考えていたのでは…

 

もしこの視点が正しければ、現代社会に通じるものもあるかもしれません。

 

まとめ

本記事では、『内灘闘争を元にした絵画作品。池田龍雄の《網元》』と題してお話してきました。

 

  • 池田龍雄《網元》は内灘闘争をテーマとしたルポルタージュ絵画
  • 内灘闘争は石川県の内灘町で起きた砲弾試射場設置への反対運動
  • ルポタージュ絵画は社会問題や事件を風刺性や問題性を混ぜ、主観的に書いた作品
  • 《網元》はそもそも漁村社会の問題性から、内灘闘争を見た作品ではないか?

 

とまとめます。

 

単に、事件を伝えるだけであれば、文章でできるかもしれませんが、絵画だからこそ伝えれる感情や問題意識がありますね。

 

抽象的なため広い見方を与えます。

 

読んで頂きありがとうございました。

 

芸術・アートはなぜよく分からない。どこが面白いのか。どうすれば楽しめるか。美術作家の解説。

こんにちは。

 

「芸術」「アート」Google検索すれば、「よく分からない」サジェストされるぐらい、芸術はよく分からないものと見られているようです。

 

私が美術作家を始めたのは2020年4月ごろです。(本記事を書いているのは2021年7月)

2年前はどちらかと言えば「よく分からない」と思う側の人間でした。

というのは、美術の知識は少しありましたが、やはり作品を見ると「何がいいのか…」となることのほうが多かったからです。

 

そんな私だからこそ思う、美術が分かりにくい理由と楽しみ方を教えます。

 

きっと芸術を楽しむための方法が分かる…


はずです!

 

 

 

芸術・アートはなぜ分からないのか

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芸術・アートが分からない理由は教えてもらえないからです。

 

娯楽の一つだから誰でも楽しめるものでは…と考えてはいけません。

 

例えばテレビで見るお笑いにしても、ボケとツッコミの役割の理解、時事ネタが入った漫才や物マネの芸では元の知識が必要となります。

 

何も考えずに楽しんでいるのではなく、実は知識が求めれています。

 

スポーツ観戦もルールを理解して分かるようになります。フォーメーションや選手の情報などと知識が増えてより楽しく思えてきます。

 

特にアートに近いものが文学ではないかと思います。(文学もアートと考えることもできますがそれは置いておきます。)

 

文学は小学校の1年から、国語という時間で味わいます。

漢字を覚え、比喩といった表現法を知り、登場人物の気持ちを考える、発表するなんてことを行います。

次第に文章も難しくなり、中学3年生の頃には文豪太宰治が出てきたことを覚えています(『走れメロス』)。

 

しかし、芸術(小学校では図工)では絵を描いていく授業がほとんどではないでしょうか。

絵を鑑賞し、油絵やキャンバスなどの使用する素材を学ぶこと、タッチや色彩の違いを分析すること、描いた人の気持ちについて話し合い、考えるなんてことをすることは少ないのではないでしょうか。

 

日本の教育は、小学校のころから学びとして、芸術に触れるということは行われていません。

 

多くの人が、鑑賞力のない子ども状態のまま、難解な絵が紹介される事態。
この事態が発生しているのが日本です。
例えば、多くの人にピカソの名前が知られていますが、ピカソの作品はかなり難解なものだと私は思います。

 

文学で例えれば、国語の授業をほとんど受けれず育った人に、夏目漱石ドストエフスキーの書籍が急に渡されるような次第です。

 

もしそんなことがあれば、「本は意味が分からない!」「どこが面白いのか分からない!」となってしまいますね。

 

しかし、芸術・アートで事態は起こっています。
分からないという声が発せられるのは、鑑賞の仕方を教わっていないにも関わらず難解な作品が偉大な作品として見せられているからなのです。

 

芸術・アートのどこが面白いのか。

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芸術・アートのどこが面白いのかと言うと、面白いのは芸術ではなく、芸術作品だと思います。

 

こちらも本に例えたいのですが、

本が好きという人も、すべての本が好きなわけではありません。

 

好きな小説家や好きな本に出会いことで楽しめます。

 

芸術・アートも好きな美術作家や好きな作品に出合い、味わうことが面白いのです。

 

面白くない、と言う人ほどまだ多くの作品に触れ、知識を持っていないことがあるかもしれません。

 

芸術・アートを楽しむためには時間を費やせ

ここまで、芸術・アートがなぜ分からないか、面白く見えないかを話してきました。

 

芸術・アートを楽しむ方法はは時間をかけ、知識や鑑賞経験を積んでいくことです。

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知識がつくことで、新たに好きな作家や作品が見つかり、より広がっていきます。

 

一見どこがいいのか分からなかった作品も楽しめるようになっていきます。

 

以下で、どう時間を費やすとよいかをお話します。

 

芸術を楽しむために

では、どのように芸術鑑賞、知識や経験を積めばよいかおすすめします。

①ネットで検索してみよう

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一番におすすめしたいのはネットで検索することです。

 

ある程度知名度のある偉大な芸術家であれば「(芸術家名) 解説」Google検索すれば、「美術手帖」のような大手サイトや個人のアート好きの解説サイトが現れてきます。

 

気になる作家や作品があれば検索してみましょう。

印象派」「現代アート」のような美術用語を入れてみるのもよいです。

 

芸術を楽しむとなると、美術館に行くこと、または画集を見ることが浮かぶかもしれません。

が、私は知識がある上で行くほうが楽しいと思います

 

②書籍を見てみよう

芸術・アートをこれから楽しみたいという人にはこちらの本がおすすめです。

アートについて書かれた本には、ある特定の美術運動や人物について詳細に書かれたものがあります。

 

上記の書は、この本は知識がない中でも、こう鑑賞すると楽しいなどと紹介されています。

 

表題の通り、エリートとの関係という、芸術・アートを見る上での1視点の話もありますが、アートの楽しみ方が分かりやく書かれおり、気軽に読むことができます。

 

③好きなアーティストを発見しよう

知識やアートの知識・見方を得れば、美術館に行く、画集を見てみるなど鑑賞をしてみましょう。(画集は高いので図書館で借りることがおすすめです。)

 

知識・鑑賞経験が増えるほど美術館が楽しくなってきます。 

 

美術館や画集で見ることの良さは非日常性や、新たな出会いです。

ネットでは画像として見れる作品もありますが、やはり限られています。

作家の代表作ばかりです。

 

味わう中で気になるアーティストを見つけ、さらに知識を深めていく。

その繰り返しがアートの味わい方です。

 

まとめ

今回は『芸術・アートはなぜわからない。どこが面白いのか。どうすれば楽しめるか。美術家の解説。』と題して、芸術・アートの楽しみ方を解説していきました。

 

  • 芸術・アートが分からないのは教えてもらっていないから
  • 芸術・アートが面白いのではなく、面白い作品に出合うのが楽しい
  • 楽しむためには、時間を費やすべき
  • まずネット検索を使い、知識を増やしてみることがおすすめ

 

が話の要点です。

 

まずは、気になる有名アーティストを少し調べてみるとよいでしょう。

 

記事が芸術・アートを楽しむための一助になれば幸いです。

 

読んで頂きありがとうございました。

 

マヴォの《バラック・プロジェクト》。関東大震災時のアート。廃材によるアートについて考えてみた

現在、私は廃校での芸術祭に向けて作品の構想や分析に時間を割いています。そのため、廃材をアートにすることの意味について考えています。

 

その際、注目している日本芸術史の出来事として、戦前の芸術家集団マヴォバラック・プロジェクト》があります。

 

バラック・プロジェクト》は大正時代の関東大震災に見舞われた東京にて起こったイベントです。

 

本記事ではバラック・プロジェクトと、バラックとは何か、この活動の意味を考えてみます。

 

 

バラック・プロジェクト》(1923年)

バラック・プロジェクトは戦前の日本で、芸術家集団マヴォによって行われました。

https://www.kosho.or.jp/upload/save_image/31030210/20200405135808084969_03f15a2fa6b49a4d6dc6db5f0a175856.jpg

マヴォの発起人の村山知義(1901~1977)小説家や画家、ダンサーと広く活動

 

震災後に残った木材や建築物を組み合わせて、応急処置的に作った建物が「バラック建築」です。

 

マヴォのアーティストたちはバラック建築に装飾を行いました。

 

書店、理髪店、百貨店、食堂などあったそうですが、残念ながら現存はしていません。

 

マヴォは活動当時はそれほど注目されていませんでしたが、1960年代ごろより国内外で研究が進められるようになります。

バラック・プロジェクト》はマヴォの活動の中で特に重要視して研究されているものです。

 

 

余談ですが、マヴォに影響を受けたオンライン雑誌が現在あるようです。

mavo.takekuma.jp

 

バラック街。現在も。

バラックGoogle検索してみました。

 

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バラック建築」Google検索

 

どこかで見たことあるような建物でもありますね。

 

 

見ると、東京に限らず、さまざまな地域について紹介がされています。

 YouTubeでも多く紹介されていました。

www.youtube.com

 

バラック関東大震災を受けた東京だけの建物ではないようです。

バラックとは何でしょうか。

 

バラックとは?

www.youtube.com

 

バラックを調べると

バラック【barrack】

本来は兵隊のための宿舎,とくに駐屯兵のための細長い宿舎を意味する。それが転じて,火災や地震,水害,あるいは戦争などで,家屋が焼けたり破壊されたりした際に,ありあわせの材料を用いて作った一時しのぎのための小屋を指すようになり,さらには,比喩的に粗末な住宅一般をも意味するようになった。このことばが一般化したのは,1923年9月1日に起こった関東大震災で瓦礫(がれき)の山と化した東京の都心に,人々が崩壊家屋の廃材などを組み合わせて建てた粗末な小家屋をバラックと呼ぶようになってからである。 (世界大百科事典 第2版)

 

 つまり

  • 「兵隊のための宿舎,とくに駐屯兵のための細長い宿舎」
  • 「火災や地震,水害,あるいは戦争などで,家屋が焼けたり破壊されたりした際に,ありあわせの材料を用いて作った一時しのぎのための小屋
  • 「比喩的に粗末な住宅一般」

 

の意味があります。

 

駐屯兵のための一時的な細長い住まいが、災害や戦争後の粗末な住まいも表すようになったということでしょう。

 

 

バラック街が増えた理由は? 

 

バラック街が増えた理由については、やはり戦争とその後の社会の動きが大きく影響しています。同志社大学の本岡拓也教授によれば

  • 戦争で住宅を失った人、疎開した人の住宅不足
  • 開発放棄された空き地が多くあり、仮住宅を作れる場所が多くあった
  • 朝鮮戦争による好景気で労働力が増加し、都市へ人が流れた
  • 浮浪者や戦争孤児への対処に負われ、政府・自治体が流入者の住宅に対し取り組めなかった

 という社会背景があったそうです。(講演会の資料より)

 

読みとれることとして、バラック街は住宅不足により生まれたものであり、貧しい人が住んでいた場所ではありません。住んでいた人には多様な人がいたようです。

 

 

バラック・プロジェクト》を考える

単に被災の廃材に対して芸術をもたらした社会活動とも言えますが、芸術の文脈では広い観点からみることができます。

 

私の知見からの論考のため、もし他にこんな見方があるという方はお教えください。

①日常と芸術の結びつき

バラック・プロジェクトは 日常空間にアートを持ち込んだ先駆的な取り組みです。

 

海外でマヴォ研究を行っているジェニファー・ワイゼンフィルド(1966~)は新しい芸術の始まりだったと考察しています。

 

以前、別記事にて日常に芸術を持ち込む「ハプニング」を紹介しました。

bigakuchikamichi.hatenablog.com

 

バラック・プロジェクト》もそのハプニングと同じく、日常を芸術に持ち込もうとする動きですが、日常に芸術を持ち込んだ活動としては、世界的にも先駆的な動きだったということです。

 

日常に芸術を持ち込むという考えはどう生まれていったかについて分析する目線から、マヴォを研究するということができます。(筆者の私が一番知りたいことでもあります…)

 

②日本の近代化への危惧

西洋を真似ていく近代化に対して、危険を感じていた文化人は多くいます。
例えば、文豪では夏目漱石がその一人です。江戸時代から続く封建的な文化と明治から始める近代文化を作品の中で対比し、論じていました。

 

マヴォの活動もその一つとして捉えることができます。

 

近代化の進む東京が震災で崩れた
→ただ同じ西洋化・近代化の方向性で立て直すべきではない
→過去を引き継ぎつつも違う日本へ
バラックに落書きをして過去と新しさの必要性を主張

 

同時期に起こった芸術運動、柳宗悦民芸運動とも、日本文化とは何かと探った点で近いものがあります。

bigakuchikamichi.hatenablog.com

 

震災後の活動という面においては、本記事を書いている2021年7月に熱海にて土石流の災害が起きました。

自然災害で人の命や街が失われることで、土地の歴史や伝統も崩れていきます。

 

復興の中で文化や社会について振り返り、新たに何が創り出せるかを考えていく必要性があるということにマヴォは気づいていたのかもしれません。

 

③廃材利用のアート

廃材を芸術として使うという面は、ダダの影響とも取れます。

bigakuchikamichi.hatenablog.com

 

マヴォは戦後日本のダダと形容され、ダダの影響を受けた集団です。(自分たちのことはマヴォイストと自称していますが…)

 

廃材を用いて作品を作ることは、環境問題の側面から現代の美術でも多く取り組まれています。

 

しかし環境志向は近年のもので、当時は偶然性や日常性を求めて行われたものと捉えられます。環境の側面から活動の意図を考えることは難しいかもしれません。

 

環境面について考えると、廃材を利活用しても最終的にまたゴミになってしまうのではないかとも見れます。

バラック建築は簡易な建物のため、すぐに廃材となってしまうものでもあります。

 

しかしそこに装飾性がつくことで、語り継がれる出来事として残される一因となっています。有限な建築を語り継がれる建築としたことは一つの芸術の意味と考えることができます。

 

④町の景観。地理学

SNSを見れば古い建物や街並みにどこか惹かれ、写真を撮る人も多いようです。同じく私もその人間です。バラック街にも惹かれるところがあります。

 

しかし、バラック街に住みたいとは思いません。水環境もいいところではないそうなので…

 

バラック街を不法な危ない場所と考えることもできますが、一つの歴史の舞台として見ていくことも重要ではないかとも言えます。

バラック・プロジェクト》のように芸術と共同することで、新たな視点や、価値を見つけていくことも、バラック街に違った視点を持つ一つであるように思います。

 

こうして考えていくと、芸術は歴史ある建物を保護について知見を持たせてくれるものと気づかされます。

 

 

ダダを解説!ダダイズムの呼び名はおかしいのでは?反芸術運動という言葉も後付け。シュルレアリスムとの違いも。

20世紀の美術史の中でダダという言葉は多く出てきます。

 

スイスはダダで起こった運動ですが、ヨーロッパ各地やアメリカ、日本へと広がりました。

便器を展示したマルセル・デュシャンダダイストなんて自称しています。

惹かれる人も多いシュルレアリスム絵画の始まりもダダだったそうです。

 

しかし、このダダが何であるかについて理解するに私も時間がかかりました。

 

意味しないものを求めたものがダダであり、その意味を捉えることが難しかったからです。(いきなりよく分からない言い方をしてると思いますが、これを記事で分かって頂けたら光栄です。)

 

そして、理解して分かったことは、ダダを生み出したトリスタン・ツァラ(1896~1976)はダダイズムなんて呼び名で言われることや、反芸術としてとらえられることすら否定したのではないかということです。

 

本記事ではダダとその誕生や考察、影響について解説します。

 

 

ダダとは

ダダは、秩序や常識に徹底的な疑いや破壊を向ける運動でした。

1915年ごろよりスイスのチューリヒで起こります。

https://www.swissinfo.ch/resource/image/41928046/landscape_ratio3x2/640/426/11510a644dcca3476d79f3c14dad73e2/0EE89DBCB03C89C24B815E5B0E87660F/cabaret-voltaire-aussen-jpg.jpg

↑ダダの始まったスイスのキャバレー・ヴォルテール  全てを疑問視した芸術運動 - SWI swissinfo.ch

 

  

「ダダ」という言葉自体は何も意味していません。秩序を破壊しようとしているため、言葉が意味を持つことを否定しているのです。

 

運動の中心となったのは詩人のトリスタン・ツァラ(1896~1963)でした。

https://tristantzara-jp.github.io/archive/Image/%E5%B0%8F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%99/tzaratelerama1.jpg

引用元 詩人トリスタン・ツァラの世界

 

ツァラは1918年に『ダダ宣言』を執筆しています。

「ダダは何も意味しない」「破壊と否定の大仕事を成し遂げる」といった宣言が記されています。

 

絵画作品であれば

https://uploads6.wikiart.org/images/jean-arp/automatic-drawing.jpg

《automatic drawing》(1916)ジャン・アルプ(1866~1966)

 

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《仮面》(1919)マルセル・ヤンコ(1895~1984)

など、伝統的に行われてきた美術表現の否定が目指されています。

 

社会の多くの人が共有する規範、価値観を根底から揺さぶりにいったのがダダという運動と言えます。

 

ダダイズムと呼ぶべきではない?

ダダがダダイズムと呼ばれることがありますが、当事者の目線を考えるとこれは少し間違いではないかと思えます。

https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61QFFTP7ATL._SX218_BO1,204,203,200_QL40_ML2_.jpg

https://amzn.to/3wRGCsk

今日、ダダは「ダダイズム」「ダダイスム」と呼ばれています。Wikipediaを見ても「ダダイスム」でページがまとまっています。

ja.wikipedia.org

多くの著の題名すらダダイズムとなっています。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51yJdjnwAdL._SX345_BO1,204,203,200_.jpg

www.amazon.co.jp

 

しかし、ダダの中心人物の画家であったハンス・リヒター(1888~1976)の著書『ダダ』では、ダダは「イズム」の付いた、まとまった主義主張を否定している、と話します。統一された形式になってしまうことを否定しています。新しい表現形式も生まれただけだと話しています。

 

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51Tf0IbiHLL._SX353_BO1,204,203,200_.jpg

ダダ―芸術と反芸術 | ハンス リヒター, 一郎, 針生 |本 | 通販 | Amazon

 

現在ダダは芸術運動としてとらえられていますが、ダダの創始者たちとしては芸術運動と捉えられることそのものも否定しているのでしょう。

 

ダダイストという言葉も、ダダを知ったマルセル・デュシャンが自称したものです。

 

ダダから多くの作品や派生した芸術の傾向が生まれたため、芸術史の中で一つの芸術運動と考えることはできます。しかしダダイズムという名前で語られてしまうことは問題があるのではないかと私は思います。

 

今ではウルトラマン・ダダと区別する意味もあるかもしれませんが。(ウルトラマン・ダダはダダから命名された名前であるようです。)

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反芸術運動も後付け

ダダは20世紀最大の反芸術運動と言われることがあります。

 

しかし、この「反芸術」という言葉も後付けであり、ダダをこの言葉で解説するのは疑問があります。

 

反芸術1950 年代から60年代半ばアメリカやフランス、日本などで起きた美術の傾向です。(アメリカではネオダダ、フランスではヌーヴォー・レアリスム、日本では九州やゼロ次元など)

日用品やがらくたなどを用いた作品が多い特徴があります。

 

反芸術はダダに影響され、伝統党的な美術表現の否定を行うものです。しかし新たな表現を創り出そうとしたものですが、ダダのように破壊したものではありません。

 

ダダは反芸術に影響を与えたものであり、ダダを反芸術として捉えるのは難しそうです。

 

ダダの誕生

そもそものダダの誕生について見ていきます。

https://tristantzara-jp.github.io/archive/Image/%E5%B0%8F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%99/passport.jpg

詩人トリスタン・ツァラルーマニアの生まれですが、第一次世界大戦ルーマニアが参戦すると見て、1915年にスイスのチューリヒへ移住します。(実際、1916年ルーマニア第一次世界大戦に参加します)

 

スイスは中立国だったため、戦火を避けた詩人や芸術家が多く集まっていました。

 

ドイツからスイスへ逃れた詩人フーゴー・バル(1886~1927)のパートナー、歌手ユミー・ヘニングス(1885~1998)が酒場を開店します。

その酒場は「キャバレー・ヴォルテール」です。

www.myswitzerland.com

現在もアートセンター兼、クラブ、カフェとして観光スポットの一つになっています。

 

キャバレー・ヴォルテール」に詩人や芸術家が集まり、詩の朗読や舞台のパフォーマンスを行うようになりました。

 

キャバレー・ヴォルテールでの集まりの中、偶然性を生かした作品も作られるようになっていきます。

 

新聞記事を寸断して袋に入れ、無作為に撮りだした言葉を並べて詩を作る「ダダの作詞法」も生まれました。

 

ハンス・アルプは大きな紙の上に四角い紙片を滑らせてできた配置を利用して制作を行います。

https://lh4.googleusercontent.com/-eu1ZXfLcBZo/UleCfSCP_TI/AAAAAAAABZU/sd5PxHHkyNs/s640/blogger-image--849920263.jpg

《偶然の法則によって配置されたコラージュ》ハンス・アルプ(1916)

 

ダダの広がり

ダダは大きく広がりを見せました。 

  • チューリヒ・ダダ
  • ニューヨーク・ダダ
  • ベルリン・ダダ
  • ハノーヴァー・ダダ
  • ケルン・ダダ
  • パリ・ダダ

さらに、オランダ、ユーゴスラビア、イタリア、日本、ロシアなど多くの地域で広がりを見せます。

どのダダにもアート史に残る芸術家がいます。

https://k-daikoku.net/wp-content/uploads/2016/06/14281537445_87b0220a43_z.jpg

ニューヨーク・ダダのマルセル・デュシャン《泉》(1917年)

 

しかし、本家のチューリヒ・ダダとはどれも違った動きを見せています。

 

偶然性を生かすことに軸がおかれたものもあれば、政治との関係に意識が向いたものもあります。

 

同じまま引き継がれていかないことも、意味を持たないダダの特徴と言えますね。

 

ツァラ1920年代ごろ、世界のダダを集めた一大アートブックの編集も考えていたそうです。(結局頓挫しました。)

シュルレアリスムはダダとどう違う?

ダダはシュルレアリスムに大きく影響を与えたとされます。

 

https://i1.wp.com/media.thisisgallery.com/wp-content/uploads/2020/09/The-Persistence-of-Memory-canvas-collection-Salvador-1931.jpg?resize=1000%2C665&ssl=1

《記憶の固執》ダリ(1931年)

 

 シュルレアリスムは詩人アンドレ・ブルトン(1896~1966)のシュルレアリスム宣言』で始まる芸術運動です。無意識の世界、夢の世界を表現することを目指しました。

https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51dAbwGlFeL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_.jpg

www.amazon.co.jp

 

一見どちらも無秩序を求めているように見えますが、ダダは秩序の破壊・否定することを求めたのに対し、シュルレアリスムは秩序を否定せず、秩序と無秩序の合わさりを求めています

 

シュルレアリスムは、偶然性を生かすといった手法においてダダから影響を受けていますが、考えのもととなったのはフロイトの理論です。

ジークムント・フロイト(1856~1939)は人には自分でも意識のできない無意識の世界があるという理論を解きました。

フロイトの無意識の世界を芸術の枠組みの中で形にすることを求めたのがシュルレアリスムです。

 

ダダとシュルレアリスムは始まりも似ていますが、大きく共通するのは偶然性という部分であるようにも見えます。

破壊を求めたダダは1920年代半ばに勢いを失ってしましましたが、秩序と無秩序の共存を求めたシュルレアリスムは半世紀以上も続き、ダダ以上の規模や影響の広がりを持ちました。

 

ダダとレトリスム

ダダは秩序を否定しましたが、それは言語を否定することでもありました。

 

この影響を受け、文字の意味まで解体することを目指したレトリスム(文字主義)」という運動があります。

ルーマニアの詩人イジドール・イズー(1925~2007)が主導者となりました。

 

ノイズを多用した映画『涎と永遠についての概論』も1951年に作成しています。

shibuya.uplink.co.jp

レトリスムシュルレアリスムほど盛り上がりませんでしたが、ダダを引き継いだ運動と言えます。

 

ダダは、チューリッヒに集まった多言語の芸術家たちの動きであり、言語を破壊し、コミュニケーションを新たに創出することは一つの目的であったはずです。

 

まとめ

 本記事ではダダについて解説してきました。

 

ダダイズム、反芸術運動の用語でダダを羅わすことにはやはり少し疑問が残ります。

 

創始者トリスタン・ツァラについてまとめたサイト一つ分で紹介したものもありました。

tristantzara-jp.github.io

 

ダダの活動が起わった後、ツァラシュルレアリスムの運動に参加していったそうです。

 

 破壊を目指した芸術運動が続かないという事例は日本でも起こっています。(今後必ず解説していきます。)

 

しかし、国を超えて人がつながるために、決められたルールをなくそうとする姿勢には得る教訓があるように思います。

 

読んで下さりありがとうございました。

 

柳宗悦の朝鮮での活動やオリエンタリズム利用としての批判について解説!本当に西洋からの偏見を利用したのか?オリエンタル・オリエンタリズムとも。

前回記事にて、日本の思想家である柳宗悦(1889~1961)が日常のさりげない美を発見する民芸運動を行ったことを紹介しました。

bigakuchikamichi.hatenablog.com

 

本記事は、柳宗悦植民地での活動やその批評について紹介します。

 

柳宗悦は国内の民芸運動のみでなく、当時日本が植民地とした朝鮮半島や台湾に対しても目を向けた人物でもあります。

 

2016年の映画『SOETSUー韓くにの白き太陽ー』では、柳の活動を軸に植民地化の韓国が描かれています。

www.gekidanmingei.co.jp

 

しかし、一連の柳の活動が、西洋の偏った東洋イメージを利用したオリエンタリズムと批判を受けることがあります。

 

本記事では『【美術解説】柳宗悦の韓国での活動、オリエンタリズム立場からの批判について解説!』と題し、柳宗悦朝鮮半島での活動を紹介します。

 

 

柳宗悦の朝鮮での活動

柳は、朝鮮陶磁器の研究者で朝鮮で教師をしていた浅川伯教(1884~1964)との交流から、朝鮮の陶磁器に魅せられます。


https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/fs/1/2/5/0/8/5/_/49800321289.jpg

浅川伯教 浅川伯教・巧兄弟の紹介 - 山梨県北杜市(月見里県星見里市)公式サイト

 

1910年代より、朝鮮に足を運び、文化を見て回るようになりました。

 

https://mingeikan.or.jp/wp-content/uploads/2021/03/k1_04-411x500.jpg

日本民藝館より https://mingeikan.or.jp/

 

柳は朝鮮に対し、愛着を持ち

  • 植民地政策批判
  • 朝鮮文化の保護・紹介

を行いました。

 

具体的には、出版物として朝鮮人を想ふ』(1919)『朝鮮の友に贈る書』(1920)があります。1919年の独立運動(三・一運動)を植民地政策の当然の結果と考え、植民地運動を批判します。

 

1921年には国内初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催しています。

 

朝鮮現地での活動も積極的であり、1922年には朝鮮の伝統様式の建築物である光化門(こうかもん)の改築反対や、また1924年に開設された朝鮮民族美術館の開設に尽力しました。

 

パソコンで簡単に本を書くことも、車で簡単に朝鮮半島に行くことも難しい時代。朝鮮半島に対し多くの時間や労力を費やしたことは、それほど朝鮮へ愛を持っていたということでしょう。

 

また、柳宗悦の活動は妻、中島兼子(1892~1984)さんがアルト歌手としてコンサートで活動資金を捻出したことも大きな支えであったようです。

台湾、沖縄、アイヌでの活動も

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日本民藝館より https://mingeikan.or.jp/collection/taiwan_16/?lang=ja

 

柳は台湾、沖縄、アイヌの活動も積極的に行い、日本が近代化の中で「劣っている」と見ていた植民地や地方の文化を尊重していきました。

 

 柳の収集した民芸品が貯蔵される日本民藝館には、朝鮮、台湾、沖縄、アイヌの工芸品が現在も多く展示されています。

 

台湾では伝統的な竹細工と織物へ注目しただけでなく、台湾での調査・講演を数多く行ったことが知られています。

 

柳とオリエンタリズム利用としての批判

しかし、柳の活動がオリエンタリズムの利用であるとして批判をされます。

 

まずオリエンタリズムについてから解説していきます。

オリエンタリズムとは

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オリエンタリズム「西洋が東洋への味方に暴力性がある」という考え方です。

 

アメリカ人比較文学エドワード・サイード(1935~2003)が文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の中で提唱しました。

 

近代において、西洋の帝国主義が世界に不均一な権力関係を作りました。

 

西洋は東洋はより劣った存在で、東洋に対し「受動的」「肉感的」といったイメージを持っていました。

 

これは芸術分野にも見える視点です。

例えばフランスの画家ポール・ゴーギャン(1848~1903)は植民地のタヒチへ行き、現地民の生活や文化を絵にしました。(プリミティブアートの作風でもあります。)

https://i0.wp.com/media.thisisgallery.com/wp-content/uploads/2018/12/paulgauguin_01.jpg?fit=1920%2C1432&ssl=1

ポール・ゴーギャンタヒチの女(浜辺にて)》(1891年)

 

しかし、当地の文化を原始的、文明の影響のない場所と捉えていたことはオリエンタリズムの視線とも見えます。

 

西洋が異文化に対し、「優と劣」「中心と周縁」「文明と影響」といった二項対立で捉えていたこと、そしてその目線が現実での支配や差別を認めてしまうこと。

 

帝国主義の支配や差別を批判するのではなく、そもそもの認識の暴力性を指摘したものの一つがオリエンタリズムと捉えることができます。

 

柳がオリエンタリズム批判を受けるのはなぜか。オリエンタル・オリエンタリズム

https://www.pref.toyama.jp/images/11039/d505_8.jpg

引用元https://www.pref.toyama.jp/1738/miryokukankou/bunka/bunkazai/3044/exh_0100/exh_0000/exh_0505.html

 

なぜ東洋の日本の活動家である柳がオリエンタリズムとして批判を受けるのでしょうか?

 

これは柳がオリエンタリズムを利用していたと捉えれるからです。

 

現在の日本文化ではなく、古典的な文化を主張する民芸運動で日本の姿を主張したことは、オリエンタリズムを肯定してしまいます。

 

西洋が一方的に東洋へ偏見を持ったのではなく、東洋がその偏見を助長していたとも考えることができます。

 

また、柳の朝鮮や台湾の古来の文化を広げたことも、オリエンタリズムを他国へ広げたと捉えれます。

 

オリエンタリズムを利用し、他国へと広げることで再び「中心」(日本)と「周縁」(韓国・台湾)という関係を作ってしまいました。

 

デザイン史家の菊池裕子(1961~)は、東洋の中でオリエンタリズムが受け入れられ、転用されていくことを「オリエンタル・オリエンタリズムと名付けます。

 

柳はオリエンタリズムに囚われていたのか

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柳はオリエンタリズムを利用していたのでしょうか。

 

柳は自分の属する文化への誇りが人々を力づけると純粋に信じていた人物です。文化活動により人々の活力を培おうとしたのです。

 

中見真理(国際関係思想史研究者、1948~)によると、柳は多様性を重んじる「複合の美」の思想に支えられ、植民地での活動を行っていたそうです。

 

しかし、柳が自国の文化アイデンティティを打ち立てようと急ぎ、オリエンタリズムを利用してしまった側面があることは否めません。

 

夏目漱石も、自国のアイデンティティは独自の文化によって生まれるとナショナル・アイデンティティを捉えていた人物でした。

 

自国の独自性を作ろうと急いだ文化人が多くいたのでしょう。

 

まとめ

本記事では『 【美術解説】柳宗悦の朝鮮での活動やオリエンタリズム利用としての批判について解説!本当に西洋からの偏見を利用したのか?オリエンタル・オリエンタリズムとも。』と題し、柳宗悦の植民地での活動や対する批判について見ていきました。

 

まとめると

 

 

日本文化とは何か、そして日本人とはと考えると一概に表すことは難しいものです。

柳のように各地の古典的な文化に注目することで美を見出すことはできますが、ある特定の文化を、アイデンティティと定めることは危険があるでしょう。

 

文化は利用するのではなく、純粋に愛着を持って楽しむものなのかもしれません。

その中で、保護や知見に結びついていくとよいかもしれません。

【美術解説】民芸運動(民藝)とは?簡単に解説!柳宗悦の『用の美』や収集作品、アーツ・アンド・クラフツ運動との関係について!

現在も使われることの多い「民芸(民藝)」という言葉。

 

「民芸」は「民衆的工芸」の略で、1920年代ごろから日本で注目されるようになりました。

 

民芸運動柳宗悦(やなぎむねよし、やなぎそうえつ)(1889-1961)による運動です。

実は前回記事で紹介した、イギリスのアーツ・アンド・クラフト運動からも影響を受けています。 

bigakuchikamichi.hatenablog.com

 

本記事では、柳の行った民芸運動、柳の見出した概念「用の美」、収集した作品、アーツ・アンド・クラフツ運動との関係性を探ります。

民芸運動とは?

 

https://s.japanese.joins.com/upload/images/2013/06/20130606112412-1.jpg

(https://s.japanese.joins.com/JArticle/172433?sectcode=420&servcode=400)


民芸運動1920年代ごろより、日本で起こった「日常の暮らしに宿る美しさを追究」する運動です。

 

思想家・美学者である柳宗悦を中心に展開されました。

https://mingeikan.or.jp/wp-content/themes/mingeikan/images/soetsu1.jpg

柳宗悦(むねよし、ともそうえつとも読む)(https://mingeikan.or.jp/about/soetsu/?lang=

 

柳の主な活動は

  • 1931年、京都で工房「上賀茂民芸教団」を設立し、共同作業場を作る
  • 1931年には雑誌『工藝』を発刊
  • 各地で民芸品の調査・収集や展覧会を行う
  • 1934年「日本民芸協会」の発足
  • 1936年日本民藝館駒場(東京)に設立し、民芸品の収集・展示

となります。

 

名高い職人の作った精巧な作品や、新しい機械や技術で作られた作品ではなく、名もなき職人の日用品として作った作品に美があると訴え、運動を起こしました。

 

柳宗悦の「用の美」

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51ezwjHijEL._SX373_BO1,204,203,200_.jpg

www.amazon.co.jp

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柳は『用の美』という概念を主張しています。

 

柳は、真の美は日用性から自然と生じると考えました。

 

コップで例えると、コップにおしゃれな絵や飾りつけを行うことで美が表れるのではなく、コップに持ちやすくすること、持ちやすい取っ手をつけてみることから美が表れるということです。

 

柳は「用美相即」(ようびそうそく)あるいは、「用を離れて美はない」という言葉も残しました。

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白薩摩土瓶(江戸時代〔日本〕19世紀) (https://mingeikan.or.jp/collection/japan1_25/?lang=ja )

 

柳は、利便性が求められる工業化で、工芸品の品質が低下すると危ぶみます。

 

名もいない職人の工芸に価値を捉え、日本の民衆の芸術を重んじていました

 

柳の美学理論がまとまった作品として『工藝の道』(1928年)、『民芸とは何か』(1941年)があります。

 

柳の収集作品は?日本民藝館へ!

https://mingeikan.or.jp/wp-content/themes/mingeikan/images/honkan.jpg

日本民藝館https://mingeikan.or.jp/floormap/honkan/?lang=ja )

 

柳が1936年に設立した日本民藝館は現在も東京の駒場に残されています。

 

日本民藝館に展示される作品のほとんどが柳宗悦の作品です。

https://mingeikan.or.jp/wp-content/uploads/2021/04/cjo_tamba_2_4_l-500x422.jpg

自然釉甕( https://mingeikan.or.jp/collection/japan1_21/?lang=ja )

 

https://mingeikan.or.jp/wp-content/uploads/2021/03/wjw_mask_14_l-417x500.jpg

奉納面( https://mingeikan.or.jp/collection/japan3_13/?lang=ja )

 

アーツ・アンド・クラフツ運動との関係

柳はウィリアム・モリス(1834~1896)がイギリスで行った「アーツ・アンド・クラフツ運動」へ共感しています。

 

アーツ・アンド・クラフツ運動は工業化・分業化に反対し、手工業へ回帰することで、生活・労働の喜びを取り戻すという運動です。

bigakuchikamichi.hatenablog.com

柳はモリスの民衆の芸術を重んじる考えに共感しました。

 

しかし美意識の違いは批判しています。

 

柳はモリスの工芸を「人間中心的」と捉えました。

 

  • モリス→職人が手工業で自由に行ったデザインが美しい
  • →名もない職人の利便性を求めた、作為性ないデザインが美しい

 

柳は利便性から美が生まれると考えており、職人が自由な作為を施すことに反対したということですね。

https://mingeikan.or.jp/wp-content/uploads/2021/03/j2_02-392x500.jpg

白地蔦枝垂梅文様着物(https://mingeikan.or.jp/collection/japan2_12/?lang=ja )

https://www.fiq-online.com/images/Shopinfo/Shopinfo_isTAX0Ha7rdNYsrE8W6SP02T_3.jpg

モリスの『いちご泥棒』(https://www.fiq-online.com/newsDetail.php?id=isTAX0Ha7rdNYsrE8W6SP02T )

 

しかし、実際の作品を見てみると、どちらも拘りもって書いているように見えますが…

 

ちなみに、柳は時折日本を訪れていたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)と仲を深め、ともに民芸運動を行っていました。

https://cdn.camp-fire.jp/jbimages/c305689d-bc7a-4d52-a905-41cbf22f980a.jpg

バーナード・リーチhttps://camp-fire.jp/projects/49980/activities/40200

 

バーナード・リーチとの活動は、柳がアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けたきっかけの一つでもあるようですね。

 

まとめ

本記事では、『【美術解説】民芸運動(民藝)とは?簡単に解説!柳宗悦の『用の美』や収集作品、アーツ・アンド・クラフツ運動について!』と題し、

 

民芸運動柳宗悦の活動、思想を追いました。

 

  • 民芸運動は日常の暮らしに宿る美しさを追究した
  • 1920年代ごろから柳宗悦を中心に行われた
  • 柳宗悦は作為性ではなく、利便性が美を生み出すと考えた
  • アーツ・アンド・クラフツ運動から影響を受けているが、職人の自由に表現する作為性は批判

 

現在も使われている民芸という言葉ですが、もともとは工業化することに対して重要視されていった言葉であるようですね。

 

手の込んだ芸術品ではなく、名もない製品に美を見出してみること。

 

自分の家に既にあるものに、デザイン性を持って眺めてみると、新たな発見があるかもしれませんね。

 

柳宗悦の活動は、民芸のみならず、韓国や台湾などに対しての活動もあります。

これについては次回記事にて記したいと思います。