柳宗悦の朝鮮での活動やオリエンタリズム利用としての批判について解説!本当に西洋からの偏見を利用したのか?オリエンタル・オリエンタリズムとも。
前回記事にて、日本の思想家である柳宗悦(1889~1961)が日常のさりげない美を発見する民芸運動を行ったことを紹介しました。
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本記事は、柳宗悦の植民地での活動やその批評について紹介します。
柳宗悦は国内の民芸運動のみでなく、当時日本が植民地とした朝鮮半島や台湾に対しても目を向けた人物でもあります。
2016年の映画『SOETSUー韓くにの白き太陽ー』では、柳の活動を軸に植民地化の韓国が描かれています。
しかし、一連の柳の活動が、西洋の偏った東洋イメージを利用したオリエンタリズムと批判を受けることがあります。
本記事では『【美術解説】柳宗悦の韓国での活動、オリエンタリズム立場からの批判について解説!』と題し、柳宗悦の朝鮮半島での活動を紹介します。
柳宗悦の朝鮮での活動
柳は、朝鮮陶磁器の研究者で朝鮮で教師をしていた浅川伯教(1884~1964)との交流から、朝鮮の陶磁器に魅せられます。
浅川伯教 浅川伯教・巧兄弟の紹介 - 山梨県北杜市(月見里県星見里市)公式サイト
1910年代より、朝鮮に足を運び、文化を見て回るようになりました。
日本民藝館より https://mingeikan.or.jp/
柳は朝鮮に対し、愛着を持ち
- 植民地政策批判
- 朝鮮文化の保護・紹介
を行いました。
具体的には、出版物として『朝鮮人を想ふ』(1919)『朝鮮の友に贈る書』(1920)があります。1919年の独立運動(三・一運動)を植民地政策の当然の結果と考え、植民地運動を批判します。
1921年には国内初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催しています。
朝鮮現地での活動も積極的であり、1922年には朝鮮の伝統様式の建築物である光化門(こうかもん)の改築反対や、また1924年に開設された朝鮮民族美術館の開設に尽力しました。
パソコンで簡単に本を書くことも、車で簡単に朝鮮半島に行くことも難しい時代。朝鮮半島に対し多くの時間や労力を費やしたことは、それほど朝鮮へ愛を持っていたということでしょう。
また、柳宗悦の活動は妻、中島兼子(1892~1984)さんがアルト歌手としてコンサートで活動資金を捻出したことも大きな支えであったようです。
台湾、沖縄、アイヌでの活動も
日本民藝館より https://mingeikan.or.jp/collection/taiwan_16/?lang=ja
柳は台湾、沖縄、アイヌへの活動も積極的に行い、日本が近代化の中で「劣っている」と見ていた植民地や地方の文化を尊重していきました。
柳の収集した民芸品が貯蔵される日本民藝館には、朝鮮、台湾、沖縄、アイヌの工芸品が現在も多く展示されています。
台湾では伝統的な竹細工と織物へ注目しただけでなく、台湾での調査・講演を数多く行ったことが知られています。
柳とオリエンタリズム利用としての批判
しかし、柳の活動がオリエンタリズムの利用であるとして批判をされます。
まずオリエンタリズムについてから解説していきます。
オリエンタリズムとは
オリエンタリズムは「西洋が東洋への味方に暴力性がある」という考え方です。
アメリカ人比較文学者エドワード・サイード(1935~2003)が文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の中で提唱しました。
近代において、西洋の帝国主義が世界に不均一な権力関係を作りました。
西洋は東洋はより劣った存在で、東洋に対し「受動的」「肉感的」といったイメージを持っていました。
これは芸術分野にも見える視点です。
例えばフランスの画家ポール・ゴーギャン(1848~1903)は植民地のタヒチへ行き、現地民の生活や文化を絵にしました。(プリミティブアートの作風でもあります。)
しかし、当地の文化を原始的、文明の影響のない場所と捉えていたことはオリエンタリズムの視線とも見えます。
西洋が異文化に対し、「優と劣」「中心と周縁」「文明と影響」といった二項対立で捉えていたこと、そしてその目線が現実での支配や差別を認めてしまうこと。
帝国主義の支配や差別を批判するのではなく、そもそもの認識の暴力性を指摘したものの一つがオリエンタリズムと捉えることができます。
柳がオリエンタリズム批判を受けるのはなぜか。オリエンタル・オリエンタリズム
引用元https://www.pref.toyama.jp/1738/miryokukankou/bunka/bunkazai/3044/exh_0100/exh_0000/exh_0505.html
なぜ東洋の日本の活動家である柳がオリエンタリズムとして批判を受けるのでしょうか?
これは柳がオリエンタリズムを利用していたと捉えれるからです。
現在の日本文化ではなく、古典的な文化を主張する民芸運動で日本の姿を主張したことは、オリエンタリズムを肯定してしまいます。
西洋が一方的に東洋へ偏見を持ったのではなく、東洋がその偏見を助長していたとも考えることができます。
また、柳の朝鮮や台湾の古来の文化を広げたことも、オリエンタリズムを他国へ広げたと捉えれます。
オリエンタリズムを利用し、他国へと広げることで再び「中心」(日本)と「周縁」(韓国・台湾)という関係を作ってしまいました。
デザイン史家の菊池裕子(1961~)は、東洋の中でオリエンタリズムが受け入れられ、転用されていくことを「オリエンタル・オリエンタリズム」と名付けます。
柳はオリエンタリズムに囚われていたのか
柳はオリエンタリズムを利用していたのでしょうか。
柳は自分の属する文化への誇りが人々を力づけると純粋に信じていた人物です。文化活動により人々の活力を培おうとしたのです。
中見真理(国際関係思想史研究者、1948~)によると、柳は多様性を重んじる「複合の美」の思想に支えられ、植民地での活動を行っていたそうです。
しかし、柳が自国の文化アイデンティティを打ち立てようと急ぎ、オリエンタリズムを利用してしまった側面があることは否めません。
夏目漱石も、自国のアイデンティティは独自の文化によって生まれるとナショナル・アイデンティティを捉えていた人物でした。
自国の独自性を作ろうと急いだ文化人が多くいたのでしょう。
まとめ
本記事では『 【美術解説】柳宗悦の朝鮮での活動やオリエンタリズム利用としての批判について解説!本当に西洋からの偏見を利用したのか?オリエンタル・オリエンタリズムとも。』と題し、柳宗悦の植民地での活動や対する批判について見ていきました。
まとめると
- 柳は植民地化へと反対し、朝鮮に対し出版や現地の活動などで尽力
- 台湾や沖縄、アイヌに対しても活動を行った
- オリエンタリズムは西洋が東洋を劣っていると考えていること
- 東洋内で、オリエンタリズムが活用されることをオリエンタル・オリエンタリズムという
- 柳は結果的にオリエンタリズムを利用した人物だが、自国のアイデンティティや多様性の重視を思い活動した人物である
日本文化とは何か、そして日本人とはと考えると一概に表すことは難しいものです。
柳のように各地の古典的な文化に注目することで美を見出すことはできますが、ある特定の文化を、アイデンティティと定めることは危険があるでしょう。
文化は利用するのではなく、純粋に愛着を持って楽しむものなのかもしれません。
その中で、保護や知見に結びついていくとよいかもしれません。