ダダを解説!ダダイズムの呼び名はおかしいのでは?反芸術運動という言葉も後付け。シュルレアリスムとの違いも。
20世紀の美術史の中でダダという言葉は多く出てきます。
スイスはダダで起こった運動ですが、ヨーロッパ各地やアメリカ、日本へと広がりました。
便器を展示したマルセル・デュシャンはダダイストなんて自称しています。
惹かれる人も多いシュルレアリスム絵画の始まりもダダだったそうです。
しかし、このダダが何であるかについて理解するに私も時間がかかりました。
意味しないものを求めたものがダダであり、その意味を捉えることが難しかったからです。(いきなりよく分からない言い方をしてると思いますが、これを記事で分かって頂けたら光栄です。)
そして、理解して分かったことは、ダダを生み出したトリスタン・ツァラ(1896~1976)はダダイズムなんて呼び名で言われることや、反芸術としてとらえられることすら否定したのではないかということです。
本記事ではダダとその誕生や考察、影響について解説します。
ダダとは
ダダは、秩序や常識に徹底的な疑いや破壊を向ける運動でした。
1915年ごろよりスイスのチューリヒで起こります。
↑ダダの始まったスイスのキャバレー・ヴォルテール 全てを疑問視した芸術運動 - SWI swissinfo.ch
「ダダ」という言葉自体は何も意味していません。秩序を破壊しようとしているため、言葉が意味を持つことを否定しているのです。
運動の中心となったのは詩人のトリスタン・ツァラ(1896~1963)でした。
引用元 詩人トリスタン・ツァラの世界
ツァラは1918年に『ダダ宣言』を執筆しています。
「ダダは何も意味しない」「破壊と否定の大仕事を成し遂げる」といった宣言が記されています。
絵画作品であれば
《automatic drawing》(1916)ジャン・アルプ(1866~1966)
《仮面》(1919)マルセル・ヤンコ(1895~1984)
など、伝統的に行われてきた美術表現の否定が目指されています。
社会の多くの人が共有する規範、価値観を根底から揺さぶりにいったのがダダという運動と言えます。
ダダイズムと呼ぶべきではない?
ダダがダダイズムと呼ばれることがありますが、当事者の目線を考えるとこれは少し間違いではないかと思えます。
今日、ダダは「ダダイズム」「ダダイスム」と呼ばれています。Wikipediaを見ても「ダダイスム」でページがまとまっています。
多くの著の題名すらダダイズムとなっています。
しかし、ダダの中心人物の画家であったハンス・リヒター(1888~1976)の著書『ダダ』では、ダダは「イズム」の付いた、まとまった主義主張を否定している、と話します。統一された形式になってしまうことを否定しています。新しい表現形式も生まれただけだと話しています。
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現在ダダは芸術運動としてとらえられていますが、ダダの創始者たちとしては芸術運動と捉えられることそのものも否定しているのでしょう。
ダダイストという言葉も、ダダを知ったマルセル・デュシャンが自称したものです。
ダダから多くの作品や派生した芸術の傾向が生まれたため、芸術史の中で一つの芸術運動と考えることはできます。しかしダダイズムという名前で語られてしまうことは問題があるのではないかと私は思います。
今ではウルトラマン・ダダと区別する意味もあるかもしれませんが。(ウルトラマン・ダダはダダから命名された名前であるようです。)
反芸術運動も後付け
ダダは20世紀最大の反芸術運動と言われることがあります。
しかし、この「反芸術」という言葉も後付けであり、ダダをこの言葉で解説するのは疑問があります。
反芸術は1950 年代から60年代半ばにアメリカやフランス、日本などで起きた美術の傾向です。(アメリカではネオダダ、フランスではヌーヴォー・レアリスム、日本では九州やゼロ次元など)
日用品やがらくたなどを用いた作品が多い特徴があります。
反芸術はダダに影響され、伝統党的な美術表現の否定を行うものです。しかし新たな表現を創り出そうとしたものですが、ダダのように破壊したものではありません。
ダダは反芸術に影響を与えたものであり、ダダを反芸術として捉えるのは難しそうです。
ダダの誕生
そもそものダダの誕生について見ていきます。
詩人トリスタン・ツァラはルーマニアの生まれですが、第一次世界大戦にルーマニアが参戦すると見て、1915年にスイスのチューリヒへ移住します。(実際、1916年ルーマニアは第一次世界大戦に参加します)
スイスは中立国だったため、戦火を避けた詩人や芸術家が多く集まっていました。
ドイツからスイスへ逃れた詩人フーゴー・バル(1886~1927)のパートナー、歌手ユミー・ヘニングス(1885~1998)が酒場を開店します。
その酒場は「キャバレー・ヴォルテール」です。
現在もアートセンター兼、クラブ、カフェとして観光スポットの一つになっています。
「キャバレー・ヴォルテール」に詩人や芸術家が集まり、詩の朗読や舞台のパフォーマンスを行うようになりました。
キャバレー・ヴォルテールでの集まりの中、偶然性を生かした作品も作られるようになっていきます。
新聞記事を寸断して袋に入れ、無作為に撮りだした言葉を並べて詩を作る「ダダの作詞法」も生まれました。
ハンス・アルプは大きな紙の上に四角い紙片を滑らせてできた配置を利用して制作を行います。
《偶然の法則によって配置されたコラージュ》ハンス・アルプ(1916)
ダダの広がり
ダダは大きく広がりを見せました。
- チューリヒ・ダダ
- ニューヨーク・ダダ
- ベルリン・ダダ
- ハノーヴァー・ダダ
- ケルン・ダダ
- パリ・ダダ
さらに、オランダ、ユーゴスラビア、イタリア、日本、ロシアなど多くの地域で広がりを見せます。
どのダダにもアート史に残る芸術家がいます。
ニューヨーク・ダダのマルセル・デュシャン《泉》(1917年)
しかし、本家のチューリヒ・ダダとはどれも違った動きを見せています。
偶然性を生かすことに軸がおかれたものもあれば、政治との関係に意識が向いたものもあります。
同じまま引き継がれていかないことも、意味を持たないダダの特徴と言えますね。
ツァラは1920年代ごろ、世界のダダを集めた一大アートブックの編集も考えていたそうです。(結局頓挫しました。)
シュルレアリスムはダダとどう違う?
ダダはシュルレアリスムに大きく影響を与えたとされます。
《記憶の固執》ダリ(1931年)
シュルレアリスムは詩人アンドレ・ブルトン(1896~1966)の『シュルレアリスム宣言』で始まる芸術運動です。無意識の世界、夢の世界を表現することを目指しました。
一見どちらも無秩序を求めているように見えますが、ダダは秩序の破壊・否定することを求めたのに対し、シュルレアリスムは秩序を否定せず、秩序と無秩序の合わさりを求めています。
シュルレアリスムは、偶然性を生かすといった手法においてダダから影響を受けていますが、考えのもととなったのはフロイトの理論です。
ジークムント・フロイト(1856~1939)は人には自分でも意識のできない無意識の世界があるという理論を解きました。
フロイトの無意識の世界を芸術の枠組みの中で形にすることを求めたのがシュルレアリスムです。
ダダとシュルレアリスムは始まりも似ていますが、大きく共通するのは偶然性という部分であるようにも見えます。
破壊を求めたダダは1920年代半ばに勢いを失ってしましましたが、秩序と無秩序の共存を求めたシュルレアリスムは半世紀以上も続き、ダダ以上の規模や影響の広がりを持ちました。
ダダとレトリスム
ダダは秩序を否定しましたが、それは言語を否定することでもありました。
この影響を受け、文字の意味まで解体することを目指した「レトリスム(文字主義)」という運動があります。
ルーマニアの詩人イジドール・イズー(1925~2007)が主導者となりました。
ノイズを多用した映画『涎と永遠についての概論』も1951年に作成しています。
レトリスムはシュルレアリスムほど盛り上がりませんでしたが、ダダを引き継いだ運動と言えます。
ダダは、チューリッヒに集まった多言語の芸術家たちの動きであり、言語を破壊し、コミュニケーションを新たに創出することは一つの目的であったはずです。
まとめ
本記事ではダダについて解説してきました。
ダダイズム、反芸術運動の用語でダダを羅わすことにはやはり少し疑問が残ります。
創始者トリスタン・ツァラについてまとめたサイト一つ分で紹介したものもありました。
ダダの活動が起わった後、ツァラはシュルレアリスムの運動に参加していったそうです。
破壊を目指した芸術運動が続かないという事例は日本でも起こっています。(今後必ず解説していきます。)
しかし、国を超えて人がつながるために、決められたルールをなくそうとする姿勢には得る教訓があるように思います。
読んで下さりありがとうございました。