マヴォの《バラック・プロジェクト》。関東大震災時のアート。廃材によるアートについて考えてみた
現在、私は廃校での芸術祭に向けて作品の構想や分析に時間を割いています。そのため、廃材をアートにすることの意味について考えています。
その際、注目している日本芸術史の出来事として、戦前の芸術家集団マヴォの《バラック・プロジェクト》があります。
《バラック・プロジェクト》は大正時代の関東大震災に見舞われた東京にて起こったイベントです。
本記事ではバラック・プロジェクトと、バラックとは何か、この活動の意味を考えてみます。
《バラック・プロジェクト》(1923年)
バラック・プロジェクトは戦前の日本で、芸術家集団マヴォによって行われました。
マヴォの発起人の村山知義(1901~1977)小説家や画家、ダンサーと広く活動
震災後に残った木材や建築物を組み合わせて、応急処置的に作った建物が「バラック建築」です。
書店、理髪店、百貨店、食堂などあったそうですが、残念ながら現存はしていません。
マヴォは活動当時はそれほど注目されていませんでしたが、1960年代ごろより国内外で研究が進められるようになります。
《バラック・プロジェクト》はマヴォの活動の中で特に重要視して研究されているものです。
余談ですが、マヴォに影響を受けたオンライン雑誌が現在あるようです。
バラック街。現在も。
どこかで見たことあるような建物でもありますね。
見ると、東京に限らず、さまざまな地域について紹介がされています。
YouTubeでも多く紹介されていました。
バラックは関東大震災を受けた東京だけの建物ではないようです。
バラックとは何でしょうか。
バラックとは?
バラックを調べると
バラック【barrack】
本来は兵隊のための宿舎,とくに駐屯兵のための細長い宿舎を意味する。それが転じて,火災や地震,水害,あるいは戦争などで,家屋が焼けたり破壊されたりした際に,ありあわせの材料を用いて作った一時しのぎのための小屋を指すようになり,さらには,比喩的に粗末な住宅一般をも意味するようになった。このことばが一般化したのは,1923年9月1日に起こった関東大震災で瓦礫(がれき)の山と化した東京の都心に,人々が崩壊家屋の廃材などを組み合わせて建てた粗末な小家屋をバラックと呼ぶようになってからである。 (世界大百科事典 第2版)
つまり
- 「兵隊のための宿舎,とくに駐屯兵のための細長い宿舎」
- 「火災や地震,水害,あるいは戦争などで,家屋が焼けたり破壊されたりした際に,ありあわせの材料を用いて作った一時しのぎのための小屋
- 「比喩的に粗末な住宅一般」
の意味があります。
駐屯兵のための一時的な細長い住まいが、災害や戦争後の粗末な住まいも表すようになったということでしょう。
バラック街が増えた理由は?
バラック街が増えた理由については、やはり戦争とその後の社会の動きが大きく影響しています。同志社大学の本岡拓也教授によれば
- 戦争で住宅を失った人、疎開した人の住宅不足
- 開発放棄された空き地が多くあり、仮住宅を作れる場所が多くあった
- 朝鮮戦争による好景気で労働力が増加し、都市へ人が流れた
- 浮浪者や戦争孤児への対処に負われ、政府・自治体が流入者の住宅に対し取り組めなかった
という社会背景があったそうです。(講演会の資料より)
読みとれることとして、バラック街は住宅不足により生まれたものであり、貧しい人が住んでいた場所ではありません。住んでいた人には多様な人がいたようです。
《バラック・プロジェクト》を考える
単に被災の廃材に対して芸術をもたらした社会活動とも言えますが、芸術の文脈では広い観点からみることができます。
私の知見からの論考のため、もし他にこんな見方があるという方はお教えください。
①日常と芸術の結びつき
バラック・プロジェクトは 日常空間にアートを持ち込んだ先駆的な取り組みです。
海外でマヴォ研究を行っているジェニファー・ワイゼンフィルド(1966~)は新しい芸術の始まりだったと考察しています。
以前、別記事にて日常に芸術を持ち込む「ハプニング」を紹介しました。
bigakuchikamichi.hatenablog.com
《バラック・プロジェクト》もそのハプニングと同じく、日常を芸術に持ち込もうとする動きですが、日常に芸術を持ち込んだ活動としては、世界的にも先駆的な動きだったということです。
日常に芸術を持ち込むという考えはどう生まれていったかについて分析する目線から、マヴォを研究するということができます。(筆者の私が一番知りたいことでもあります…)
②日本の近代化への危惧
西洋を真似ていく近代化に対して、危険を感じていた文化人は多くいます。
例えば、文豪では夏目漱石がその一人です。江戸時代から続く封建的な文化と明治から始める近代文化を作品の中で対比し、論じていました。
マヴォの活動もその一つとして捉えることができます。
近代化の進む東京が震災で崩れた
→ただ同じ西洋化・近代化の方向性で立て直すべきではない
→過去を引き継ぎつつも違う日本へ
→バラックに落書きをして過去と新しさの必要性を主張
同時期に起こった芸術運動、柳宗悦の民芸運動とも、日本文化とは何かと探った点で近いものがあります。
bigakuchikamichi.hatenablog.com
震災後の活動という面においては、本記事を書いている2021年7月に熱海にて土石流の災害が起きました。
自然災害で人の命や街が失われることで、土地の歴史や伝統も崩れていきます。
復興の中で文化や社会について振り返り、新たに何が創り出せるかを考えていく必要性があるということにマヴォは気づいていたのかもしれません。
③廃材利用のアート
廃材を芸術として使うという面は、ダダの影響とも取れます。
bigakuchikamichi.hatenablog.com
マヴォは戦後日本のダダと形容され、ダダの影響を受けた集団です。(自分たちのことはマヴォイストと自称していますが…)
廃材を用いて作品を作ることは、環境問題の側面から現代の美術でも多く取り組まれています。
しかし環境志向は近年のもので、当時は偶然性や日常性を求めて行われたものと捉えられます。環境の側面から活動の意図を考えることは難しいかもしれません。
環境面について考えると、廃材を利活用しても最終的にまたゴミになってしまうのではないかとも見れます。
バラック建築は簡易な建物のため、すぐに廃材となってしまうものでもあります。
しかしそこに装飾性がつくことで、語り継がれる出来事として残される一因となっています。有限な建築を語り継がれる建築としたことは一つの芸術の意味と考えることができます。
④町の景観。地理学
SNSを見れば古い建物や街並みにどこか惹かれ、写真を撮る人も多いようです。同じく私もその人間です。バラック街にも惹かれるところがあります。
しかし、バラック街に住みたいとは思いません。水環境もいいところではないそうなので…
バラック街を不法な危ない場所と考えることもできますが、一つの歴史の舞台として見ていくことも重要ではないかとも言えます。
《バラック・プロジェクト》のように芸術と共同することで、新たな視点や、価値を見つけていくことも、バラック街に違った視点を持つ一つであるように思います。
こうして考えていくと、芸術は歴史ある建物を保護について知見を持たせてくれるものと気づかされます。